2010年10月17日、親爺殿を無理やり林道ツーリングに引っ張り出し、山伏登山をした。
その帰り道、いつか行ってみたい、と思っていた硯島小中学校の室畑分校に親爺殿の案内で、
やっと訪れることができた。
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室草里の集落の北のはずれ、雨畑川方向へ少し下った平地になった所にそれはあった。
親爺殿に「ここ、ここ!南部守殿」と言われなければ分らないほど、かつての校庭は草に覆われ、校舎を隠している。
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草を掻き分けなんとか校庭部分に入り込み、校舎全景を撮影した。
硯島小中学校の分校として、昭和10年に小学校が、22年には中学校が設立されたそうだ。
そして昭和48年には硯島小中学校に統合され、廃校となったそうだ。
私が高校2年生の年だ。中学校2年生の時、生徒会の交流で硯島中学校に来たことがある。
昭和45年であった。その頃はまだここが学校として存在していたのだ。
私と同級生の方もきっといたはずだ。どんな学校生活だったか、川には魚がどれくらいいたのか聞いてみたい。      
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これはこの学校の昭和30年代のある日の一コマ。
写真を撮るので女の子は少しおしゃれな服を着ているようにも見える。
ここに写っているうちの何人がまだ町内に残っているのだろう。
皆さんもう60代になっているはずだ。
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校舎正面に向かって一番左側(山側)にある教室。
風雨にさらされ、傷みがひどい。
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校舎正面向かって一番右側(雨畑川寄り)の教室。

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真ん中の教室の天井。
星座のお勉強。
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子供たちのどんな活動を記したのかな。
昼休み、川でアマゴ捕り!なんてね。

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教科書やドリルが散乱していました。
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廊下です。
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山側にある校舎への入り口です。
残された椅子が悲しい。
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山側から川側を見ています。
傷みがよくわかります。
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昭和30年代の分校の全職員、生徒。
知っている方写ってますか?
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校舎の山側、一段高いところにある、教員住宅。

たまたま私の小学校1
,2年生の担任だったK先生(女性 とても美人)が教員になった最初の赴任地が、
幸運にも硯島小学校!だった事を覚えていたので、その頃(昭和32〜35年)の話を聞いてみた。
本校(硯島小)から月に何度か室畑分校に教えに通っていた。その頃は下宿していた本村から
室草里までは山道しかなく、朝6時頃弁当を持って徒歩で出かけた。無用心なので男性教諭を
含めた複数人数で分校へ向かった。途中にとても長くて高さのある吊橋があり、立っていられず
這って渡った。10時頃にやっと分校に到着した。昼食がすんだな、と思ったら、さあ帰りまし
ょう。夕方の5時か6時ごろ本校に戻った。その頃の分校の子供たちの様子で気が付いた事は、
腕が変に曲がってしまっている子がいた事だ。聞いてみると、山の子供のことだて山を駆けずり
回って遊んでいるうちに転んだり、落っこちたりで骨折することがままあったようで、医者が遠
いからとそのまま自然治癒に任せた結果と分った。また目の悪い子も多かった。その頃は室草里
はまだ電気が来ておらず、ランプ生活。その上結膜炎やら、トラホームになる子も多くやはり医
者に行かないのでとてもかわいそうだった。教員住宅に住んで常駐している男性教諭は夜になれ
ばすることもないので、村の青年たちと酒盛りばかりしていたそうだ。山梨県内で室畑分校とい
えばピカイチの僻地だった。僻地手当ても最も高額だった。今となれば大変な4年間だったけれ
ども良い思い出だ。分校の形が残っているのなら近いうちに是非行ってみたい。」

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分校の校庭でフォークダンスをする青年団の男女(昭和30年代)
マイムマイムかな?


時代の流れの必然とは言え、朽ち掛けた校舎の姿は余りに悲しい。過疎化が進むなか、
(県内どこも似たようなもの)この室草里は最も早い時期から過疎になったと思われるが、
その生き証人のように思えてならない。
近いうち再訪し、せめて校庭の草刈でもしてやろうか。
 
なお、この記事中の白黒の古い写真3枚は、峡南教育事務所 「新やまかいの四季」HPより
引用させて頂きました。事前了解無しですが、良いですよね?孫引用ですから。

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かつての校庭への入り口と思われる場所にあった、コンクリートのモニュメント。
これを製作した子供たちは今どこでどうしているでしょう。
ここで学んだことはきっと強く記憶されていることでしょう。